東京高等裁判所 昭和41年(う)1245号 判決 1977年6月07日
主文
原判決中、被告人九名に関する部分を破棄する。
被告人寺内弘道を懲役五月に処し、この裁判が確定した日から一年間右の刑の執行を猶予する。
被告人加藤萬吉を罰金一万円に、同岩垂壽喜男を罰金三万円に、同喜田康二を罰金一万円に、同坂根茂を罰金三万円に、同森本俊彦を罰金三万円に、同丸山茂樹を罰金二万円に、同矢吹昭三を罰金二万円に処し、右被告人七名においてその罰金を完納することができないときは、それぞれ金二千円を一日に換算した期間、その被告人を労役場に留置する。
被告人橘英實は無罪。
理由
本件各控訴の趣意は、弁護人今永博彬らが提出した控訴趣意書(ただし、一〇九頁七行目中「同橘英實」、一一〇頁三行目から七行目まで、及び、一一三頁から一一九頁までを除き、又、被告人寺内弘道の控訴趣意については、事実の誤認をも主張するものである旨釈明した。)、被告人寺内弘道、同喜田康二、同橘英實、同坂根茂、及び、同森本俊彦がそれぞれ提出した控訴趣意書、並びに弁護人今永博彬らが提出した控訴趣意補充書、及び、控訴趣意補充書(二)に記載されたとおりであり、これらに対する答弁は、検察官蒲原大輔提出の答弁書、及び、同相澤重一提出の答弁補充書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。
はじめに
論旨はきわめて広汎かつ多岐にわたつているので、適宜これらを整理し、事案に即して必要な限度において判断を加えることとする。
第一各控訴趣意中、本件各公訴提起手続が違法無効である旨の主張について<略>
第二被告人矢吹についての控訴趣意中審判の請求を受けない事件について判決をした旨の主張について<略>
第三各控訴趣意中、事実誤認の主張について<略>
第四各控訴趣意中、本条例が違憲無効の法令である旨の主張について
一被告人寺内の所為との関係において
被告人寺内については、原審で取り調べられた関係各証拠によれば、昭和三六年五月二〇日午後八時ころから東京都千代田田丸の内一丁目一番地国鉄東京駅八重洲中央口の都電東京駅八重洲口停留所の付近で警視庁第五機動隊所属警官隊が当日本件大衆行動の一環として国民会議の主催により行われていた集団示威運動の参加者に対し、右集団示威運動につき本条例三条一項但書の規定により付されていた条件のとおり、国鉄東京駅八重洲口で到着前に平穏に流れ解散するのを確保するため、本条例四条の規定により警告や制止をしている際同駅八重洲口乗車口の東側歩道の東端付近にいた黒色学生服の氏名不詳者(若い男性)が右警官隊に向かつて投石し、これを現認した丸の内警察署巡査土屋一紀が直ちに前記都電停留所の付近で右氏名不詳者の右手首を掴み同人を公務執行妨害の現行犯として逮捕しようとしているとき、これを目撃した原審被告人武井弘が右逮捕を妨害するため同巡査の左胸付近に体当たりし、更に右氏名不詳者を掴んでいる同巡査の左腕を右氏名不詳者の身体から引き離したので、同巡査は直ちに丸の内警察署巡査田島義重郎の協力の下に武井弘を前記都電停留所の付近で公務執行妨害の現行犯人として逮捕したところ、右逮捕及びこれに続く連行を目撃して、これに憤慨した被告人寺内が、警察官に対する日頃の反感も手伝つて、前記第三の一のとおり犯行に及んだものであることが明らかであり、当審における事実の取調べの結果によつても右認定は左右されない。してみると、右の事実関係の下においては、事件の発端となつた警察官の警告制止が憲法に適合しているか否かの問題、すなわち本条例が違憲無効の法令であるか否かの問題は、同被告人の罪責の有無及び程度を判断するにつき、余りにも遠く、法律上の関連性がないというべきであるから、同被告人に対する関係では、この問題につき判断を加えないこととする。
二その他の被告人らの所為との関係において
1 集会、集団行進、集団示威運動(以下、「集団行動」という。)とは、多数人が集団として一定の日時・場所に参集し、主催者もしくは主催団体の計画に従い、政治、経済、労働問題、世界観等的に関する主張、要求、観念等を力強く一般大衆又は当局に訴えてその賛成を得るべく集団的に行動するものであつて、その反応によつて社会内に存在する多様な意見を知る有力な手段であり、さらに、市民運動のデモ等で顕著なように、それに賛同する者が直ちに参加することができるものであること、すなわち、集団行動を行う者と一般大衆との間には、表現する者と迷惑する者という関係だけが唯一つ成り立つのではなく、相互の意見交流と参加が即時的に可能であるという、マスコミ等には期待しえない優れた知的コミニユケーシヨンの環も成り立つ重要な機能をもつのである。集団行動のこのような本質にかんがみ、憲法二一条、一一条は「一切の表現の自由」の一形態である集団的表現の自由を民主国家において国民の享有する基本的人権の根幹としてこれに優越的地位を与えている。すべて国民は、個人として尊重される(憲法一三条)ばかりでなく、集団としても尊重され(同二一条)、政治、経済、文化、思想、市民等の各種団体を結成する自由及び集団として行動する自由を保障されているのであり、国民はこれを自助の精神により不断の努力によつて保持しなければならないとともに、これを濫用することなく、公共の福祉のために利用する責任を負つているのである(同一二条)。ここに公共の福祉というのは集団行動を外部的に制約する原理ではなく、すべて基本的人権に当然に内在している制約の総和に外ならない。公共の福祉とはわれわれ国民が一定の秩序の下に「一切の表現の自由」をはじめもろもろの基本的人権ができるかぎり円満に保障され、国民のすべてが国家のおかれた具体的な諸条件の下で、できる限り人間らしい生活を営み、勤労と平安の毎日を送り、しかも仰いで文化の蒼空から心の糧を得られるような状態にあることを意味するのである。
かようにして表現の一形態である集団行動が濫用にわたる場合は、あらかじめ国又は地方公共団体の立法機関が適正な手続をふんで合理的明確な構成要件を定めた刑罰法規により司法手続によつて事後的に処理されるのが建前であるべきで、これとは異なり、予め一定の内容及び方法を国や地方公共団体が禁止し、それを刑罰によつて強制するのは、憲法二一条二項が検閲を禁止している法の本旨にそわない。同項が出版物の検閲を絶対に禁止しているのは、出版の自由が行政機関の事前取締によつて圧迫されることのないようにする趣旨であつて、その精神は出版だけでなく、同一の目的の他の手段である言論や集団行動についても類推されるべきである。
ただ、集団行動の特質すなわち、場所が公共の用に供される公園、広場、道路である場合にその行動に参加しない第三者の社会生活に直接の影響を及ぼす面があること及び同時に同じ場所で集団行動が企画されたような場合に他の集団行動との利用調整をする必要があることが考えられる。そのような場合になんらかの事前抑制が加えられなければならないことはもちろんであるが、それにつきいかなる範囲と程度、方法において事前の規制を行うか、その合理的かつ明確な基準はなにかということがまさに問題なのである。
周知のように全国各地に行われている公安条例については、当初から合憲・違憲が論議され、本条例についてもその憲法適否が争われていたところ、(一)新潟県条例に関する昭和二九年一一月二四日最高裁判所大法廷判決(刑集八巻一一号一八六六頁)、(二)東京都条例に関する昭和三五年七月二〇日最高裁判所大法廷判決(刑集一四巻九号一一九七頁)、(三)近くは徳島市条例に関する昭和五〇年九月一〇日最高裁判所大法廷判決(刑集二九巻八号四八九頁)等によつてこれが憲法二一条等に違反するものでないと判断されて今日に至つている。原判決も又(二)の大法廷判決の趣旨をとうしゆうし、敷えんとするものである。右(二)の大法廷判決は、「集団行動による表現の自由に関するかぎり、いわゆる公安条例を以て、地方的情況その他諸般の事情を十分考慮に入れ、不測の事態に備え、法と秩序を維持するに必要かつ最小限度の措置を事前に講ずることはけだし止むを得ない次第である」とし、如何なる程度の措置が必要かつ最小限度のものとして是認できるかの判断は「条例全体の精神を実質的かつ有機的に考察しなければならない」と前提して本条例の検討に入り、集団行動に関しては、教課的、慣例的な行事を除き、公安委員会の許可が要求されているが(一条)、公安委員会は集団行動の実施が「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認めるられる場合の外はこれを許可しなければならない(三条)、すなわち許可が義務づけられており、不許可の場合が厳格に制限されているのであるから、この許可制はその実質において届出制とことなるところがない」とし、不許可処分をするについて事情の認定が「公安委員会の裁量に属することは、それが諸般の情況を具体的に検討、考慮して判断すべき性質の事項であることから見て当然である。」とし、おわりに、「もつとも本条例といえども、その運用の如何によつて憲法二一条の保障する表現の自由の保障を侵す危険を絶対に包蔵しないとはいえない。条例の運用にあたる公安委員会が権限を濫用し、公共の安寧の保持を口実にし、平穏で秩序ある集団行動まで抑圧することのないよう極力戒心すべきことはもちろんである。しかし濫用の虞れがあり得るからといつて、本条例を違憲とすることは失当である。」として、本条例を合憲であるとしつつ、運用が濫用にわたらないよう強く戒めているのである。
そこで、本件各控訴趣意にかんがみ原判決の当否を判断するよすがとして右大法廷判決について考えてみると、集団行動の許否を決定する基準となるものは本条例三条一項のみであつて、右判文にいう「有機的に考察しなければならない」とされる規定は他にほとんど見当たらないのであり、わずかに三条三項に、許可の取り消し又は許可条件の変更について、公共の安寧を保持するため緊急の必要があると明らかに認められるに至つたときにできるとされているにとどまるのであるから、本条例は公安委員会に右の大方針を示して包括委任したと認められるわけである。そこで公安委員会としては、下部機構を整備し、運用指針を設けて、個々の申請に対処し迅速かつ能率的に事務を処理する必要から、権限委任に関する規程、訓令ならびに条例の取扱いに関する昭和三五年一月八日東京都公安委員会決定、同年一月二八日警視総監通達が定められており、これらを綜合すればある程度その趣旨を読みとることができるが、これらに基づいて、本条例の運用の実態を検討してみると、民主政治存立の基礎条件である集団行動による政治的活動等の自由を正面から取締の対象として、事前に規制しようとする態度が看取されるのであるがそのような態度は、大衆は暴民化するものだという先入観の下に頭から政治運動や労働運動を危険視し、その他の集会やパレードと区別して取扱おうとする点で、警察国家的な発想に立つているとの批判を免れない。このような発想は原判決にも数多く見られる。その二、三を指摘すると、
(1) 原判決は、本条例が憲法二一条に違反しないとする理由として、表現の自由は「意見の表明」の埓内の行動の保障にとどまり、それを超えて「表明された意見の実現・貫徹」までをも保障するものでないという制約がある、表明された意見の実現、貫徹は現行憲法のもとでは代議制民主主義によるべきこととなつているといつて、いかにも本件の集団行動が国会の権能をさん奪するために行われたかのように説示しているのは、きわめて奇矯の論であるというほかない。
(2) 原判決は本条例にいう「公共の安寧」ということに「社会秩序」のほか一般公衆の日常生活の便益をも含ませ、集団行動はこれに大きな影響を及ぼしうる可能性をはらむ点でその規制が問題とされざるを得ないとし、集団行動が平常な心理状態を越えて集団的な心理のもとに大きな力を振るうに至ることを集団行動の病理現象であるとしてとらえ、事前規制の社会的機能は対立する利益をその衝突以前に調整することにあるとし、事前規制の中で許可制は申請を受けて禁止を解除する行政処分であり、届出制では届出により禁止が自動的に解除されるけれども、許可制では許可申請のみでは不足で官憲の許可によつて初めて禁止が解除される、また、純粋に典型的な届出制は、調整手段として機能を果し得ず不完全な制度である等というけれども、これは右大法廷判決の意見よりも更に後退した発想である。また、原判決は、本条例による事前規制は物理的な力に対する必要に由来する巳むを得ないものであつて、決して表現の自由そのものを制約することを目指すものではないともいう。しかし、表現の自由そのものの制約を目指さないからといつて表現の体現者である集団行動を事前に規制することが表現の自由を制約することにならないというのは、明かに論理の飛躍である。一滴の血を流さずして肉片を切り取ることができるであろうか。
(3) 原判決は、本条例が憲法三一条に違反するとの主張に答え、「不許可処分にもかかわらず、または許可条件に違反して行われた集団行動についてと同様に、許可申請をせず、従つて許可を受けないで行われた集団行動について、これを主催し、指導しあるいは煽動する行為」は「集団行動のもつ権利侵害の危険性を除去予防するためになしうる措置を講じないで一般公衆の日常生活の便益に対する侵害および社会秩序を乱す危険を伴う行動」を「発起、推進、展開する行為」であるから、これらを「違法行為類型として定立することは現在の国民生活、特に東京都における都市生活の現実を顧るとき十分の合理的根拠のあることが首肯される。」なお、無許可集団行動で現実に全く無害なときでも、それが本条例の定める違法行為類型に該当することは当然であるが、ただこの場合には本条例五条違反の行為は、その実質において許可申請を経由しなかつたという形式犯に殆ど接近するものとしてその違法性の量の評価において妥当にとどめなければならないのみである、と説示して、平穏で無害な無許可集団行動までも、実質犯なかんずく抽象的危険犯であるとの説を展開し、現在の判例の傾向を指導し最高裁判所の判例にまで影響を及ぼしているかにみえる。この所説によれば無許可の集団行動は、単に無許可であるという一事で刑事罰に処すべき実質的違法性を帯びるのであるから、無許可集団行動の指導者や煽動者を処罰するにはきわめて都合のよい解釈であるけれども、かくては集団行動は本来的には違法な行為であり、許可(申請)によつてはじめて違法性が阻却されることとなり、その権利性が著しく稀薄化するとともに、本条例の許可制は、禁止を解除するという点で実質的にも許可制であることになつてしまうという理論的難点に加えて、前記警視総監の通達に掲げられている典型的な実務上の処理方式にすら適合せず、この処理方式は不法な救済を行うための脱法手段に堕してしまうことになる。すなわち、右通達は「無許可の集会等に対する措置として、許可申請の手続をとらなかつた集会等についてはその集会等の実態が許可申請をすれば当然に許可になるであろうものと、そうでないものとがあるので警察のとりうる措置の程度に段階的な差異を生ずる。すなわち、三条の不許可の事由に該当し、許可の申請をしても不許可になるような場合には、ただちに解散の措置をとる等、最終的措置をとつても差支えないが、許可または条件付許可がえられるような性質のものである場合には、単に許可申請義務の違反にすぎないから、無許可を理由としてただちに解散の措置をとることは妥当ではない。」としている点と整合しないことになる。実質犯中の抽象的危険犯説は、結局、集団行動の権利性を否定する理論であつて、とうてい肯認することができない。けだし、許可申請をしないため公安委員会(実際上は警視庁警備部)において、事前の対応措置をとりえなくなるということは許可申請をしないという単なる形式犯(秩序罰)の実質的側面にほかならないといえるのであつて、事前の対応措置をとる機会が失われたからといつて、それが直ちに公共の安寧、秩序に対する危険を招来することにはならないからである。集団行動の自由が真に尊重され、それが世論や国政に反映される可能性と保障のある社会では、集団行動が暴徒化することは考えられない。危険の招来を肯定する考え方の基底には、大衆行動を嫌悪し危険視する暴民思想がひそんでいて、集団行動は本来的に違法な行為であり、本条例の許可制は、禁示を解除するという点で実質的にも許可制であるということになつてしまつて、実質的には届出制と同視されるとする最高裁判所の立場とも矛盾する結果となる。
2 集団行動につき届出制をとつているのは、一九五三年に制定された西ドイツの集会及び行進に関する法律であるが、そこにおいては、公開の場所における集団行動については公告の四八時間前までに所管庁に届け出なければならないとし(一四条一項)、更に、所管庁は事情により公の秩序又は安寧に対する直接の危険がある場合には集団行動を禁止し、又は、集団行動に一定の条件を付けることができる(一五条一項)としている。前記最高裁判所の判決の趣旨に即し、本条例が右のような届出制と実質的に同視されるべきものとして、本条例を検討してみると、集団行動を行おうとするときには公安委員会に許可申請をしなければならないが、右の申請は本来常に無条件に許可されるべきものであり、ただ集団行動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合(三条一項本文)、又は、公共の安寧を保持するため緊急の必要があると明らかに認められる場合(三条三項)にのみ、右集団行動を禁止したり、これに条件を付けたり、集団行動の許可を取り消したり、許可条件を変更したりすることができるに過ぎないと解すべきである。そして集団行動につき許可申請があつた場合、本条例所定のような特別の事情が明らかに認められるか否かは公安委員会が判断すべきことがらであるといわざるを得ないけれども、その判断にあたつては、公安委員会は集団行動が前記のとおり憲法上もつとも尊重さるべき基本的権利に属することを配慮し、本条例の立法目的を尊重して対処しなければならないことはいうまでもあるまい。そもそも、集団行動の権利は、能動的な身分権であり、かかる権利として、国家の意思形成手続に参与する手段に他ならないものであるから、本条例の諸規定は、公安委員会が保有している形成的ないし抑止的権力を利用する機会が少数者にも与えられ得るよう配慮した規定であると解すべきであり、従つて、本条例は、集団行動が円滑に行われることを公安委員会が保障し、これを援助促進することを最大の目的とするものであるというべきである。それ故公安委員会に対する許可申請は、それによつて、集団行動に対し必要な保護(他からの妨害を公権力によつて排除すること)が与えられるという側面を有するものであるが、それと共に、集団行動によつて他人の利益ことに共同社会の利益が侵害され、その結果公共の安寧が阻害されることのないような措置が講ぜられるという面での効用も考えられなければならない。この点において、公安委員会は、許可申請によつて、集団行加参加者の利益と他人の利益との衝突を調整、解消する措置を考えるべく、その結果、公共の安寧を保持するため必要不可欠の場合に、集団行動の禁止又は条件付与の措置がとられることになる道理である。従つて、例えば、交通の面における条件付与について考えてみると、それは、まず第一に集団行動が妨害を受けずに円滑に進行することを確保するためのものであるべきであり、それにより、付随的に、他人の利益の侵害ことに公共の安寧に対する阻害が排除ないし低減されるべき性質のものである。
そうだとすれば、本条例二条所定の時間の問題すなわち許可申請の時期についても、これは、公安委員会が集団行動に対する妨害を排除するための、又、他人の利益との衝突を調整するための、必要な措置をとるべき時間的余裕も考えた上での規定であり、この規定があるがために、集団行動が適切な時期に行われるのが妨げられることは、立法の趣旨にそぐわないことになる。集団行動の動機となる事態が突然生じ、かつ、緊急に集団行動を行わなければ、その意味がなくなつてしまうような情勢の下における許可申請が必要か否か、換言すれば、かかる場合の無許可集団行動の違法性の存否の問題がこれである。本件では昭和三六年六月二日の集団行動(原判示第四、第五の無許可集団示威運動)がこれに当たることは後述のとおりであるが、この場合無許可であつたことそれ自体によつて直ちに右集団行動が違法性を帯びると解すべきではなく、かかる集団行動は、国民の基本的人権尊重の建前から、原則として許容されなければならない。ただ、この場合集団行動の自由とその他の共同社会生活上の利益との比較衡量がなされるべきことはもち論であり、公共の安寧を保持する上に必要やむを得ない場合には、集団行動の自由が制限され、その適法性が失われるというべきであろう。
3 原判決以後の下級裁判所の判例をたどると、条例違憲論、運用違憲論、限定解釈論、具体的危険犯説、可罰的違法性論等に依拠して、処罰の範囲を限定しようとする真摯な努力が重ねられてきたのを、最高裁判所や多くの高等裁判所の判決は、次々に破棄し去つて今日に至つている。
本件控訴審においては一審判決以来十年余の年月を経てようやく審理判決がなされるものである以上、その間の判例のすう勢を参照することなしには論旨に答えることができない。そこで前掲(三)の昭和五〇年九月一〇日の最高裁判所大法廷判決をみるに、これは徳島市条例(届出制)についてなされたもので、本件とは事案も論旨も異なるのであるが、前掲(二)の大法廷判決とはやや異なる観点が看取され、したがつて原判決の思考とも相違する点を見出すことができる。同判決の多数意見は後にその趣旨を引用するとしてその補足意見は、表現活動に対して法令による規制がなされる場合に、その憲法適否を判断するに当たつては、その目的が表現そのものを抑制することにあるのか、それとも当該表現に伴う行動を抑制するにあるのかを一応区別して考察する必要があるとしたうえ、規制の目的が表現そのものを規制することにある場合には、それは、まさに、国又は他方公共団体にとつて好ましくない表現と然らざるものとの選別を許容することになり、いわば検閲を認めるにひとしく、違憲の判断を受けることはいうまでもないが、規制の目的が表現を伴う行動を抑制することにあるときは、別個に考察すべきであり、行動自体のもたらす実質的な弊害を防止することにある限りは、これを直ちに違憲であるとはいえないとして、蛇行進、渦巻行進、座り込み、道路一杯を占拠するいわゆるフランスデモ等のことさらな道路交通秩序の阻害をもたらす虞のある表現活動を規制することは合憲であるとするのである。また、他の補足意見は、表現の自由の制約の問題を考える場合には、表現そのものと表現の態様とを区別して考えなければならないとし、条例の濫用によつて単なる「交通秩序の維持」のために、表現そのものを抑圧するような処分が行われたならば、その処分は明らかに違憲だといわなければならないけれども、問題となつている当の態様によらなくても、他の態様によつて表現の目的を達しうる場合には、法益の権衡を考えた上で、単なる道路交通秩序のような、それほど重大でない法益を守るためにも、当の態様による表現を制約することができると解すべきであろうとする。
ともに極めて示唆に富む意見であるが、問題は、集団行動において、行動を離れて表現そのものが考えられるか、表現そのものと表現の態様とが明確に区別できるかという点に帰すると思われる。表現はしばしば行動を伴うものであり、もしその行動によらなければ当の表現の目的を達成することが客観的、合理的にみて不可能なような場合には、その行動表現そのものと考えられなければならない。これを本件についていえば、政防法案反対の意思を表明するため、その旨を表示する旗、プラカード(もつとも、その柄が兇器になるような長大なものはあらかじめ規制の要があろう。)、のぼり、横断幕、その他これに類する物件を携行したり、着装したりすることとか、その旨のシユプレヒコールをすること等は、表現そのものであるから、これをあらかじめ禁止するような許可条件を付するのは、表現自体を否定することになり、到底許されるところではない。表現を制約しうる原理は、その条件を付することなく集団行動を許すならば、公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合、換言すれば、具体的危険性のある場合に限つて明確な基準の下に必要最小限度の事前規制を行う場合に限られるが、本件の訴因となつている蛇行進、渦巻行進、座り込み、道路一杯に広がるフランスデモ等は、道路交通秩序を著しく阻害し、その結果他人からの妨害を誘発する危険が大であり、従つて公共の安寧に直接影響を及ぼすものであり、まさに、以上のような、適法な事前規制の対象となりうるもので、類型的に明確なものであるということができる。
4 以上詳述したところによつて明らかなように、本条例は、公共の安寧と表現の自由との調和点を公共の安寧に対し直接危険が及ぶことが明白な場合にはじめて不許可あるいは許可条件付与等の措置をとりうるものとしているのであり、集団行動は、表現そのものと行動とが不可分であることに表現形態上の特色を有するのであるから、条件付与は、事実上集団行動の部分的禁止を意味し、全面的禁止処分としての不許可処分との間に本質的な差異は認め難いというべきである。実際上も条件付許可処分は、正当な集団行動を制約し、表現の自由を侵害する危険性を多分に包蔵している。本条例の運用の実際においても、「集団示威運動」が許可される場合は、必要的最小限度を超えてむやみと多数の条件が付され、その中には実行不可能な条件も含まれているのであつて、このことが一般大衆をして集団行動に参加することを遠ざける、萎縮的・抑止的作用を営むことになるのは必至である。このような実態から強いて目を蔽い、原判決のように「社会秩序と一般公衆の日常生活の便益」というようなことで事を決しようとすることには大いに疑問がある。(本件においても許可条件の不当性につき一例をあげるならば、昭和三六年六月三日の国立劇場建設予定地を集合場所とし日比谷公園を解散場所とする集会、集団行動許可書によれば、行進開始時刻午後三時解散時刻午後四時三〇分として参加予定人員三万名が所定のコース(約二〇〇〇米)を条件書一の7の所定の「行進隊形六列縦隊とし、一てい団の人員はおおむね三〇〇名として、てい団とてい団との距離はおおむね一てい団の長さを保持して整然と行進すること」は、時間的にとうてい不可能で(これによると一てい団の前後列の距離をかりに0.8米とすると、一てい団の長さは約四〇米となり、てい団の間隔を同じにとれば約八〇米となるからこれを一〇〇倍(30,000/300)し、集団で約二〇〇〇米の距離を行進するための所要時間を信号待ち時間等を加味して約四〇分とみると、それだけで約一六〇分となる。これに時間待ちをしていて行進を始めることになる最終の約二五てい団が行進を終るための所要時間四〇分を加算すれば二〇〇分すなわち三時間二〇分となつて、条件書所定の時間の二倍以上かかる計算になる。)、まさに不能の条件すなわち過重な負担を主催者、指導者、参加者に課していることになり、このような条件は違法無効といわざるを得ないことは明らかである。)
5 以上要するに、集団行動に対する潜在的暴徒論は国民に対する不信と恐怖に目がくらむあまり、集団行動が一般に暴発する可能性を認めるのであるから、必然的に、集団行動を一種の抽象的危険と観念せざるを得ないことになり、かくして集団行動のあるところ、必ず法益に対する侵害の危険があり、集団行動は一面では権利行使であると同時に、他面では一種の違法行為であるとされてしまう。原判決がいう集団行動の権利性=生理と法益侵害性=病理面の同時併存的承認は、まさに右手で与えて左手で奪うものであつてとうてい賛同することができない。原判決が無許可ではあつても平穏に秩序を保つて行われる集団行動さえも抽象的危険性のある実質犯であるというとき、それはもはや前掲(二)の大法廷判決が「平穏で秩序ある集団行動まで抑圧することのないよう極力戒心すべきだ」という思考をも乗り越えてしまつている。とともに、同判決が本条例にいう許可制は「集団行動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外はこれを許可しなければならない(三条)。すなわち許可が義務づけられており、不許可の場合が厳格に制限されているのであるから、この許可制はその実質において届出制とことなるところがない」と性格づけている点とも整合しないといわざるをえない。
6 右の次第で、所論に即しつつ本条例の合憲制(ママ)を肯定した原判決に現われたいくつかの問題点を指摘してきたあるが、右の指摘によつても明らかなとのでおり、当裁判所としては、本条例の憲法適合性についてはかなり疑問をもつており、本件の原審記録では十分な取調べがなされていないため具体的に明らかにされていないけれども、本条例の字面はともかく、その運用面には大いに問題があると考えられるところから、更に反転してそのような問題のある運用を生む本条例そのものの合憲性については、かなり深い疑念をもつものであるが、過去、二十数年に及ぶ全国の公安条例に関する判例の動向や本条例に関するものを含む前掲(一)(二)(三)の最高裁判所大法廷の合憲判決が定着していると考えられ、本条例の立法目的を前記2のように解する以上、集団行動に対する不許可又は条件付与は、公共の安寧の保持との対比において厳格に、限定されるべきであるとの解釈に立てば、結論的には当裁判所の見解も右各合憲判決と矛盾するものではなく、現在、別異の結論をみちびかざるをえない特段の事情を見出すことのできない本件においては、やはり判例の趣旨に副う結論に至らざるをえない筋合である。
なお、本条例には、新潟県条例のように、集団行動の開始日時の二四時間前までに許可書の交付がなされなかつたときは、申請どおり許可があつたものとみなす旨の規定を欠いているけれども、前掲東京都公安委員会決定によつて、同趣旨の取扱いが行われてきていること(同決定六参照)も、合憲解釈を支える一つの根拠と考えられる。
更に、前掲総監通達は、本条例三条一項にいう「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」の判断基準として、「当該団体の行動傾向、違法行為の実績等。」を考慮して適確になされなければならないとされているが(同通達第二の三の1の(二)の(1)参照)、これは、当該団体の思想傾向や信条等表現の自由の内容にわたらない過去の外形的な行動傾向や違法行為の実績等を指すものと解されるから、一応客観的な基準となりうるし、むしろ、許否の決定や条件付与にあたつては、つとめて千篇一律をさけ、個々具体的に弾力性のみる運用、例えば、悪しき実績をもつ過激派集団に対しては厳に、平穏な実績をもつ集団に対しては寛にといつた運用が望ましい。
そのほか前掲(二)の大法廷判決が一七世紀貴族出身のグスタフ・ル・ボン以来の群衆心理論が現代の目的意識的、組織的な集団行動にもそのまま妥当するかのように集団行動の病理現象のみを強調した点は、観念的、非科学的であるにしても、本条例自体はその付属規程等と対照すればその合憲性を否定しなければならない程に不明確なものとは認められない。そして本条例にいう許可制は許可が義務づけられ不許可の場合が厳格に制限されていてその実質において届出制と異なるところがなく、条件付与についても不許可と同様の厳格な基準があると解すべきであるから、この許可制は、届出前における届出と受理という確認行為に加えて、例えば同じ時刻、同じ場所において大規模な二つの集団行動が企画されたような場合の調整権限及び現下の都市における道路ならびに交通の事情にかんがみ合理的明確で必要最小限度の条件を付し得る権限を公安委員会に留保する程度のことは許されるべきものと解する。
この点に関し、静岡県条例は、一条において条例の目的を掲げ、二条において条例の拡張解釈を戒める規定をおくほか、五条において「公共の安全と秩序に対して直接危険が及ぶことが明らかであると認められるときのほかは、これを許可しなければならない。」とあるほか、六条は「第三条の規定による許可をするに当たり、公共の安全と秩序に対し直接危険が及ぶことを防止するため、次の各号に掲げる事項について条件を付することができる。」として、許可と条件付許可とに共通の絞りをかけていること、西独の前記集会及び集団行進に関する法律においても、具体的危険犯説をとりつつ、条件付与の場合につき禁止の場合と同じ基準による絞りをかけていることに注目すべきである。これらの諸規定を参酌しつつ本条例を検討してみると、本条例違反罪の性質は、不許可処分を無視した集団行動の主催者、指導者、煽動者の場合であると、許可条件違反の集団行動の主催者等の場合であると、無許可の集団行動の主催者等であるとをとわず、刑事犯中の具体的危険犯であると、解される。
この点を更に補足すれば、具体的危険犯は、法文上その旨が明示されている場合もある(例えば、刑法一〇九条二項、一一〇条)が、明示がないからといつて一概にそうとはいえないことは学説の指摘するところである。すなわち、例えば、刑法九六条の二の強制執行の不正免脱罪は「強制執行ヲ免ルル目的ヲ以テ財産ヲ隠匿、損壊若クハ仮装譲渡」等をした者は、とあるだけであるが、それは強制執行を受けるおそれのある状態が現実に存すること(つまり具体的危険)を要するものと解されており(昭和三五年六月二四日最高裁判所判決、刑集一四巻八号一一〇三頁)、また刑法二三〇条の名誉毀損罪は「公然事実ヲ摘示シ人ノ名誉ヲ毀損シタル者ハ」とあつて、あたかも結果犯のような表現が用いられているにもかかわらず、それは現実の社会的評価の低下のみならず、またかかる低下の危険状態を作成した場合(具体的危険)をも含むものと解され(昭和一三年二月二八日大審院判決、刑集一七巻一四一頁)、更に刑法以外でも、例えば、国家公務員法一一〇条一項一七号や地方公務員法六一条四号の違法な争議行為等の遂行の「あおり」、「そそのかし」についても、それらの「違法行為の発生の危険性が具体的に生じたと認めうる状態に達したこと」が必要だと解されているというように(昭和四八年四月二五日最高裁判所大法廷判決、刑集二七巻四号五四七頁)、具体的危険犯はいつまでも法文の形式から一見して明白になつているわけではない。
そうすると、無許可又は条件違反の集団行動であつても、ただ無許可は条件違反ということによつて直ちに違法性を帯びるものと解すべきではなく、その結果著しい、又は長時間の交通麻痺とか対立拮抗する各集団によつてもたらされるであろう混乱等、公共の安寧の保持から見て直接の危険が生ずることが明白であるときに始めて違法な集団行動といい得るに過ぎず、かつ、かかる場合にのみ本条例五条所定の指導者らの刑事責任が問題となるに過ぎないと解すべきである。
これを本件の事案に即していうならば、本条例一条が規制の対象としている道路等における集団行動は、多数人が集団となつて一時的に道路等の一部を占拠し、歩行その他の形態においてこれを使用するものであるから、このような行動が行われない場合における交通状態を不可避的に何程かは侵害することを免れないけれども、本条例は、集団行動が表現の一態様として憲法上保障されなければならないことにかんがみ、集団行動の形態が交通状態に不可避的にもたらす障害が生じても、これを忍ぶべきものとして許容しているのであるから、本条例三条一項三号の「交通維持に関する事項」の規定によつて付せられた条件は、当該集団行動に不可避的に随判するものを指すものでないことは、極めて明らかであるところ、本件各集団行動に際して行われた蛇行進、渦巻行進、座り込み、道路一杯を占拠するいわゆるフランスデモ等の行為が、秩序正しい平穏な集団行動に随判する交通秩序阻害の程度を超えて、著しい、かつ、長時間の交通麻痺等、大きな実害の現実的発生に発展する可能性をはらむ点において法益侵害の可能性が具体的であり、まさに、公共の安寧を保持する上に直接かつ具体的な危険がもたらされると明らかに認められ、具体的危険性のある行為であるというべきである。ところで、思想表現行為としての集団行動は、さきに詳述したとおり、これに参加する多数の者が集団行動によつてその共通の主張、要求、観念等を一般公衆又は当局に強く印象づけるために行うものであり、専らこのような一体的行動によつてこれを示すところにその本質的な意義と価値があるものであるから、これに対してそれが秩序正しく平穏に行われて不必要に地方公共の安寧と秩序を脅かすような行動にわたらないことを要求しても、それは、右のような思想表現行為としての集団行動の本質的な、意義と価値を失わしめ憲法上保障されている表現の自由を不当に制限することにはならないと考えられる。しかも右の蛇行進、渦巻行進等々は概念としても具体的明確でこのような行為は公共の安寧と秩序を保持するため直接危険を及ぼすと明らかに認められる具体的危険行為であるから、これを許可条件として事前に規制する程度は必要最小限のものとして許されるものと解する。なお、念のため補足すれば、右に集団行動が秩序正しく平穏に行われる場合に随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきものというのは、正常な集団行動に通常伴うであろう程度を超えた殊更な交通秩序阻害行為、換言すれば集団行動がその本来の性質上粛然とした行動の程度を何程か超える行動形態にわたりうるものであることを容認しながら、さらに、その程度も超えた殊更な交通阻害行為を避止すべきものという意味に理解すべきものである。
いいかえれば、当該許可条件自体に即して、その許可条件を付さないことによつて得られる表現の自由行使の利益と許可条件を付することによつて公共の安寧保持の利益との具体的、個別的比較衡量の見地に立つて、集団行動の権利の調整をするならば、原判決が認めた、本件訴因となつている各条件違反の行為に限定して考える限り、本件集団行動の進路、本件各被告人が指導した集団行動の規模、振幅、気勢の程度等に関する諸般の事情のもとにおいては、公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる必要最小限度の条件であるということができ、被告人らの指導した本件各集団行動は、これに違反した具体的危険性のある行動に当たるということができる。それ以外の条件中、過剰不当で不合理なもので違法無効の部分があることは、その一部についてさきに指摘したとおりであり、問題を残すところであるけれども、本件の訴因となつていない条件については、さきにその一部に触れた程度にとどめ、それ以外の点については触れることを差し控える。
7 次に、本条例三条一項但書の規定により公安委員会が「条件」を付けることにより、指導者処罰の犯罪構成要件が定立されることになるが、これがいわゆる白地刑法であるから違憲無効であるという所論は、程度の差こそあれ公安委員会のなす措置により右の意味の犯罪構成要件が定立される場合はしばしばあり、本条例三条の場合だけ特にこれを違憲無効の白地刑法としなければならない理由はない。
8 最後に無許可又は条件違反の集団行動の指導者に対する処罰規定について考えてみるに、かかる集団行動が前述のとおりの趣旨で違法性を具えている以上、それは単に形式的違法たるにとどまらず実質的にも違法な行為であるといわざるを得ないから、その指導者、すなわち、集団示威行動の現場で言語や動作により現実に右集団行動を掌握し、これを指導したり誘導したりした者に刑罰を科することを定めているのも合理的な理由があり、又、この刑罰規定における犯罪構成要件が所論のような「不明確にして補捉しがたい」ものであるとは到底考えられず、具体的かつ明確であるということができ、更に、右刑罰規定は憲法九四条、地方自治法一四条一項、五項(同法二条二項、三項一号)の規定による授権の範囲内で東京都議会が適法に定めたものであり、従つて違憲無効の法令ではないというべきである。
9 以上の次第で、原判決の集団行動観をはじめとする説示には、当裁判所の到底首肯しえないところが多々存在し、控訴趣意には傾聴に値する部分が多々存するわけであるが、原判決が本条例は所論の憲法の条章に違反するものでないとした結論は、当裁判所も正当として肯認することができないわけではないから、この点の論旨はすべて理由がないことに帰する。
第五各控訴趣意中、その余の主張について
一被告人寺内について
1 同被告人の行為は、原審相被告人武井弘が公務執行妨害の現行犯人として逮捕連行されるのを目撃した被告人寺内が警察官に対する日頃の反感から憤激の余り、右連行を妨害するため原判示のとおりコンクリート塊を投げ付け、そのため、みずからも公務執行妨害の現行犯人として逮捕される際これを免れるため逮捕警官に暴行を加えたというもので、かように警察官、ことに違法行為をしたとして逮捕された者を連行している警察官に対する反感が直接の動機となつて行われた行為やこれに随伴して行われた前記暴行行為が本件大衆行動とは法律上の関連性がないことは前述のとおりであり、又、以上の連行や同被告人の逮捕に当たつた警察官が違法不当な行動に出たことは全くないことが原審で取り調べられた関係各証拠によつて明らかであり、当審における事実の取調べの結果によつても右認定は左右されないから、たとえ政防法案そのものと本件大衆行動に対する警察官の規制活動とに対する非難という点も同被告人の前記行為の遠因となつているとしても、同被告人の前記行為がその動機目的において正当性を帯びることはないというべく、従つて、所論が指摘する法益権衡とか手段方法の相当性とか緊急行為性とかの諸点を検討するまでもなく、同被告人の原判示第二の行為につき犯罪の成立を阻却すべき事由がないといわなければならない。なお、同被告人が妨害しようとした公務すなわち前記米田巡査及び入戸野巡査の各公務の執行が、所論が指摘するような事情のいかんにかかわらず、適法であるというべきことは、前記第三の一及び同第四の一において認定した事実関係に照らして、明白である。よつて論旨は理由がない。
2 量刑不当の主張について
所論にかんがみ一件記録を精査検討してみると、本件犯行の態様が現行犯人として逮捕された者を連行中の警ら自動者が群衆の中を縫つて走行している際これに難卵大のコンクリート塊を投げ付けたり、そのため公務執行妨害の現行犯人として逮捕される際逮捕警官の顔面を殴打したり左大腿部を蹴つたりしたもので、犯情は極めて良くなく、これにより右自動車の車体に原判示のとおり凹損が生じ、前記入戸野巡査が原判示のとおりの傷害を負うに至つたことを考慮すると同被告人の刑責は軽くないけれども、他面、同被告人の経歴や家庭の状況など所論が指摘する諸事情をしんしやくすれば、同被告人を懲役一〇月に処し三年間右の刑の執行を猶予した原判決の量刑は重過ぎて不当であると判断されるから、この点で原判決は破棄を免れず、論旨は理由がある。
二被告人加藤、同岩垂、同喜田及び坂根について
1 集団示威運動の違法性について
原審で取り調べられた関係各証拠によると、
(一) 昭和三六年五月一三日自由民主党と民主社会党との共同提案にかかる政防法案が早川崇議員外七名により衆議院に提出され、同月一五日同院法務委員会に付託され、その後同月一七日から同委員会で、政防法案提案理由の説明や補足説明、政防法案についての質疑応答、参考人からの意見聴取及び参考人に対する質疑応答を経て政防法案についての質疑が行われている最中、自由民主党と民主社会党との共同提案にかかる政防法案修正案が春日一幸議員外一名により提出され、同委員会においてはその趣旨説明を聴取した後、これと政防法案とを一括議題とし、これらについて質疑応答がなされていたところ、同年六月一日同委員会は右質疑応答の途中で、同月二日午後一〇時から理事会を開き、その後同委員会を同日午後一〇時三〇分から続行するということで散会となつたこと、被告人加藤及び同坂根の所属する総評、被告人岩垂の所属する国民会議、被告人喜田の所属する共斗会議はこの政防法案の成立に反対して本件大衆行動を展開し、その一環として、同月二日午前中までの時点では総評と国民会議との主催にかかる政暴法紛砕公務員総決起大会(約五千名の者が同月二日午後一時から氷川公園で集会を開き、その終了後同公園から第一会館東側道路を経て日比谷公園に至るまでの路上で集団行進や集団示威運動をし、更に、同日午後三時一〇分から同公園で集会を開き、その終了後同公園から新橋土橋までの路上で集団行進や集団示威運動をして同日午後四時三〇分解散するという計画)及び国民会議の主催にかかる政暴法紛砕全国統一行動(約三万名の者が同月三日国立劇場建設予定地で集会を開き、その終了後日比谷公園まで集団行進を行い、更に同月三日約六万名の者が日比谷公園から、約三万名ずつの二組に分かれ、一方は八重洲中央口まで、他方は新橋土橋までそれぞれ集団示威運動を行うという計画)が企画され、前者については総評議長名で同年五月三〇日東京都公安委員会から本条例一条本文の規定による許可を受け、後者については同年六月一日までに国民会議事務局次長名で東京都公安委員会に許可申請がなされ、そのうち国立劇場建設予定地での集会及び日比谷公園までの集団行進については同月二日委員会の許可を受けていたこと、しかるところ、自由民主党では同月一日党三役、国会対策委員長及び衆議院議院運営委員長その他の党首脳が集まり政防法案の取扱いについて意見を交換したが、その席上、会期があと一週間しかない現段階では他法案の成立を断念しても政防法案の強行成立をなすべきであるとの意見が出され、又、自由民主党内の各派閥の多くは政防法案の推進を申し合わせ、その成立を首相に要望しているとの報告が行われ、翌二日に再び集まつて最終的結論を出すということで解散し、このことが新聞報道として同月二日付朝刊で流されたこと、並びに、自由民主党の右動向を察知した国民会議や総評は同月二日夜の衆議院法務委員会で政防法案が強行可決されるかも知れないと判断し、これを阻止するため前記予定以外に更に同月二日夕刻に集団行動を行う旨の計画を立て、これに基づき、総評が同月二日午後翼下各単産に対し、同日午後四時三〇分までに第一会館前広場に集まるようにせよとの緊急指令を発し、又、国民会議も同日午後一時ころ構成幹事団体に対し、衆議院法務委員会で政防法案の強行採決が行われるような情勢であるから同日午後五時までに第一会館前広場に集合するように取り計らわれたいとの緊急動員要請を発し、総評が右緊急指令を発したことが同月二日付夕刊で新聞で報道され、又、国民会議からの要請を受けた共斗会議は、これを受けて傘下構成団体に動員を依頼し、前記第三の二のとおり第一会館前広場及びその付近の路上に参集した数千名の大衆は、以上の緊急指令、緊急動員要請及び動員依頼などによつて集まつたものであること、並びに、右大衆の前で井岡大治が前記第三の二のとおり演説を始める直前の時点で、衆議院法務委員会では、理事会において意見が対立し決裂したので、目下衆議院国会対策委員長会談が行われているが、これも決裂必至で、間もなく政防法案の強行採決が行われる見込であり、ただ今のところ休憩に入つている旨のラジオニユースが流され、これを聞いた右大衆は一層緊張感を深くして前記集団示威運動が展開されたことが認められ、以上の事実関係に照らすと、昭和三六年六月二日行われた前記第三の二及び三の各集団示威運動が本条例一条本文の規定による許可を受けないで、むしろ、右の許可を受ける時間的余裕がないまま、実施されたのも、やむを得ないものであつたと考えられる。けだし、国民が集団をなして政治的意見を表明し、そのために勢威を示すことは、代議制民主主義をとるわが国においても当然に尊重是認されなければならないことはいうまでもないところであり、ただ、これに対し公安委員会の許可を要するものとすることが憲法上肯認されているだけであるが、以上のような緊迫した情勢が突如として出現した場合にまで右の許可を受けない集団行動を違法視するのは、右集団行動が六日のあやめ十日の菊に甘んずることを強いることになり、政治的意見表明の自由を尊重すべしとする憲法上の要請に背馳することになり相当でない。しかしながら、右のような緊急の集団行動が無許可ではあつても違法視されないためには、これが公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められるようなものではないことを要し、右集団行動につき本条例一条本文の規定による許可がなされるとすれば、公共の安寧を保持する観点から本条例三条一項但書の規定により付せられることが当然予想されるような条件に違反するようなものであつてはならず、かかる条件に違反するような集団行動は、いかに緊急を要するものであつても、違法性を帯びるといわなければならない。けだし、然らざれば、無許可集団行動につき、許可済の集団行動よりも多くの自由を認める(逆にいえば無軌道を許す)ことになり、権衡が失われるからである。
(二) そして、本件大衆行動において、昭和三六年六月二日午前中までの段階で本条例一条本文の規定による許可があつた集団示威運動については、印刷された定型的文書として、ことさらな停滞(座り込み)とか車道いつぱいに広がるフランスデモなど交通秩序をみだす行為をしてはならない旨の条件が、交通秩序維持に関する事項として付けられており、このことは総評、国民会議及び共斗会議並びにその関係職員も当然これを知つていたものであると認められるところ、前記第三の二の集団示威運動はその参加者の大部分が警察官からの警告を無視して長時間第一会館前の道路に座り込み、その付近の交通を著しく阻害し、又、前記第三の三の集団示威運動はその参加者の大部分が長時間にわたり車道いつぱいに広がり両手をつなぎながら行進するフランスデモをし、その間長時間広範囲にわたり交通を著しく麻痺させたものであるが、右各集団示威運動がどうしても右のような態様で行わなければ効果があがらずその目的を達成することができないという事情はその当時全くなかつたことが明らかであり、以上の事実に照らすと、右各集団示威運動は、それが行われたことそれ自体は前記のとおり緊急やむを得ないものであつたと考えられるにせよ、その態様から見て、やはり違法な集団行動に当たるといわなければならない。
2 集団示威運動の指導について
原審で取り調べられた関係右証拠によると、被告人加藤は総評の常任幹事兼組織部長として国民会議と常時緊密な連絡をとつており、国民会議の前記緊急動員要請が決定された昭和三六年六月二日の午後〇時ころから総評本部に詰めており、従つて右要請があつたことを十分承知した上で前記第三の二のとおり第一会館前広場に赴いたものであると認められ、被告人岩垂は国民会議事務局次長として右緊急動員要請を決定した国民会議幹事会に中途から参画し、被告人喜田は共斗会議事務局次長として右幹事会に参画しており、従つて右被告人三名はいずれも前記第三の二の集団示威運動の計画に参与し、その中心的人物としてこれを前記第三の二のとおり掌握指導したものであるところ、この掌握指導行為は右三名において、右集団示威運動が前記のとおり違法な集団行動に当たることを承知した上で、自発的に、すなわち、他人からの強制や要請は受けることなく、自由な意思に基づいて行われたもので、四囲の情勢からやむなく右三名が大衆に指示を与えるにとどまつたものではないことが明らかであるし、又、被告人坂根は総評幹事として自発的に前記第三の三のとおり集団示威運動を掌握指導したもので、しかもその際右集団示威運動が前記2のとおり違法な集団行動に当たることを承知していたことが明らかであるから、右被告人四名の各集団示威運動指導につき犯罪の成立を阻却すべき事由は何ら存在しないというべく、論旨は理由がない。
三被告人森本、同丸山及び同矢吹について
原審で取り調べられた関係各証拠によると、
1 被告人森本及び同丸山が掌握指導した前記第三の四の1の集団行進に被告人矢吹が掌握指導した前記第三の五の集団示威運動は、いずれも前記のような態様、すなわち、前者については蛇行進や渦巻行進など、後者については交差点内での座り込みやフランスデモなどの態様で行わなければ効果があがらずその目的を達成することができないという事情がその当時全くなく、しかも、かかる態様で集団行動が行われたため、交通秩序に著しい破綻が生じ、公共の安寧が阻害されるに至つたことが明らかであるから、条件違反として違法な集団行動に該当するところ、右三名がこれらを掌握指導したことについて犯罪の成立を阻却すべき事由が全くないと認められ、
2 被告人森本が掌握指導した前記第三の四の2の集団示威運動は、予定された(本条例一条本文の規定による許可を受けた)集団行進の進路から、中途で逸脱して、引き続き集団示威運動に移行したもので、実質的には条件違反集団行動と見られ得るものであるが、当日、予定進路から逸脱して前記第三の四の2のような集団示威運動をしなければならないという事情が全くなく、しかも、これが前述のような態様すなわち蛇行進や渦巻行進などを伴う形態で行われたため、付近の交通に著しい悪影響が出たことが明らかであるから、これは無許可集団示威運動として違法な集団行動に該当し、同被告人がこれを掌握指導したことについて犯罪の成立を阻却すべき事由が全くないと認められるから、論旨は理由がない。
第六被告人寺内と同橘とを除く、その余の各被告人の量刑について
職権で考えてみるに、被告人加藤、同岩垂、同喜田、同坂根、同森本、同丸山及び同矢吹に対する原判決の量刑、すなわち本件各集団行動の指導者に対する原判決の量刑は、上来詳述してきた当裁判所のデモ観に立ち、政防法案に関する国会の審議経過、強行採決につぐ強行採決の状況の下に参加者の政防法案阻止を願う気持から自然発生的に行われた集団行動を指導したものであることなどに照らすと、重過ぎて妥当でないと判断されるから、この点で原判決は破棄を免れない。
第七以上の理由により、被告人橘については控訴趣意中その余の主張に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、被告人寺内については、同法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、その余の各被告人については、同法三九二条二項、三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、全被告人につき同法四〇〇条但書により当裁判所において更に次のとおり自判する。
一被告人寺内について
原判決が確定した事実に原判決挙示の各法条を適用した刑期の範囲内で被告人寺内を懲役五月に処し、情状により刑法二五条一項を適用してこの裁判が確定した日から一年間右の刑の執行を猶予することとし、原審における訴訟費用を同被告人に負担させないことについて刑訴法一八一条一項但書を適用し
二被告人加藤、同岩垂、同喜田、同坂根、同森本、同丸山及び同矢吹について
それぞれ原判決が確定した事実に原判決挙示の各法条を適用し、その所定刑中いずれも罰金刑を選択し、被告人森本の原判示第九及び第一〇の各罪は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四八条により各罪所定の罰金額を合算し、以上の被告人七名につきそれぞれ右罰金額(被告人森本については右合算額)の範囲内で、各被告人を主文第三項記載の罰金刑に処し、この各罰金を完納することができない場合の労役場留置について同法一八条を適用し、右被告人七名についての原審(なお被告人矢吹については原審のほかに当審の)訴訟費用を負担させないことについて刑訴法一八一条一項但書を適用し、
三被告人橘について
被告人橘に対する本件公訴事実は、被告人橘は昭和三六年五月三一日総評、東京地評等共催による東京都千代田区日比谷公園野外音楽堂における「政暴法紛砕青年学生総決起大会」及び右集会後国鉄東京駅八重洲中央口までの集団示威運動に参加したものであるが、同日午後八時五分ころ東京都中央区八重洲六丁目二番地先警視庁鍛治橋巡査派出所付近車道上において、前記集団示威運動に参加した全逓労組員等百名位の梯団と共にその先頭部にあつて許可条件に違反した蛇行進を行い、これが制止に当たつた警視庁第一機動隊第二中隊巡査工藤俊彦に対し所携の木製のプラカード一本を振るつて数回にわたり同巡査の頭部及び右肘部等を殴り付け、もつて同巡査の公務執行を妨害し、その際、右暴行により同巡査に対し加療約一週間を要する右肘部打撲の傷害を負わせたものであるというのであるが、前記第三の六において説示したとおりの理由により、本件被告事件については犯罪の証明がないから、刑訴法三三六条後段により、無罪の言渡をすることとして、
主文のとおり判決する。
(寺尾正二 山本卓 田尾健二郎)